鴨方校舎で学んだ卒業生の方々、倉敷校舎で学んだ卒業生の方々、
懐かしい思い出を随時募集しております!
皆様のお便りを待っています!!

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同窓生の方々の思い出を随時掲載いたします。
下記の思い出集は、40周年史に掲載したものです。

第一期生として

昭和28年3月家政科卒業
池田寿満子

短大の講義は時間は長くかなり難しいものもあり、無我夢中で勉強しました。被服製作など実技が多く、提出期限に追われ、寮に帰っても夜更けまで裁縫をしました。寮は竜王池という大きな溜め池のほとりに、赤い瓦屋根で二階建ての寄宿舎があり、池の水面に清楚な姿を映していたのを思い出します。学長先生の邸宅もすぐ近くに在って家庭的で和やかな雰囲気でありました。
戦後の貧しい時代に学生時代を過ごしたわけですが、その時はそれなりに精いっぱい充実した毎日であったと思います。そして短大を卒業して故郷の蒜山に帰り県立蒜山高等学校に勤務いたしました。当時は家庭科の短期課程と言って被服製作と調理が主で二年間で終了するコースがあり、洋裁も和裁もかなり高度なところまで教えていましたので、短大で懸命に学んだことを十分生かすことができました。

やり直しをしながら挑戦

昭和28年3月家政科卒業
吉田和子

ほとんどの教科は、二階の講義室(昔の二教室分ぐらいのもの)で講義を聞きました。移動授業は、体育(裏の運動場でバレー・ダンス・徒手体操)でした。
調理・被服など実技を伴うものは特別教室でしたが、調理実習は、コンロにうちわを使っての原始的なものでした。
音楽は、講堂で広島大学糸賀英憲教授(当時助教授)に声楽・楽典を教わりました。特に音楽理論については厳しい授業で、その中でも音程、音程の転回等は忘れられません。私事で恐縮ですが後に中学校教諭二級普通免許状(音楽)の取得に役立ちました。
被服洋裁実習は、現在の学園長原田俊子先生から部分縫いに始まり、冬のスーツ・アフタヌーンドレスに至るまで作製させていただきました。補正から完成までの過程を日夜宿題としてこなし、翌日は検閲を受けて、よければ次の過程へ進むといった毎日、だれが早くきれいにできるかの競争だったように思います。和裁は、いつも和服姿の堀部先生に単衣、袷、羽織、コートに至るまで何度もやり直しをしながらの挑戦。でも上等の和服が一枚ずつ自分の着物になる楽しみは女心を満足させてくれました。親には負担をかけたと思いますが……。日本刺繍で作った鏡かけは、今も姿身の上にかけて使っています。今しようと思ってもなかなかできないなあ……と当時を懐かしんでいます。白羽二重に白、金銀の半衿も懐かしいです。夏休みの作品、袋物(名刺入れ・ふくさ入れ・今も懐紙入れとして十分楽しんで使用しています)は、原田かめよ先生に教えていただきました。専門科目の実技面では、実力をつけていただきました。
実技面では夏休みの課題として与えられたもの以外、自ら進んで作製した作品が多かった記憶があります。

生活改良普及員として

昭和31年3月家政科卒業
実久キヌエ

昭和30年第3期生の私は、在学中に受験した県の資格試験にパスしたため、卒業と同時に生活改良普及員として岡山県農政課に入りました。三ヶ月の養成期間を終了して玉島農業改良普及所に配属され、1年間経過して結婚のため広島県に転勤となり、以来35年生活改良という仕事に魅せられて今日に至っています。最近では消費者を意識した技術の強化と豊かさの追求で「広島ふるさと一品運動」を展開しています。これら一品が農家の所得向上に結びつき、農村地域の活性化としての村の人材養成と活用により、魅力と活気あふれる農家・農村が実現できるため、組織づくりや農村後継者の育成、農村ならではの楽しみのある暮らし方の技術援助をしています。成果としてすばらしい人たちが沢山育ち活躍しています。現在広島県には、30名の生活改良普及員が13の普及所に配置されています。この内7名が岡山女子短大の卒業生であり、一時期は12名もおり、常に仲間達をリードしてきたように思われます。
同窓生で「こぶしの会」という会を結成し(昭和50年)以来、毎年1回は必ず年度初めに集まり情報交換をしながら公私共に助け合っています。現在、私は普及所で技術普及の総括を命ぜられ、以前ほど農家生活指導にかかわる時間が少なくなってきましたが、封建性の強い農村で弱い女性たちが、自分や家族・地域の暮らしを反省し、創造しすばらしい行動を起こしている姿に接し、力強い手ごたえを感じて今日までこの道一筋に突進してきました。すばらしい仕事に携わることが出来たことを感謝している次第です。

 

真弓寮の思い出

昭和30年3月家政科卒業
小城信子

昭和28年から30年まで二年間の寮生活も、30数年の歳月の流れに洗われて思い出すことも小間切れであるが、印象に残っていることを書いてみたい。
8人の大部屋……家から学校までは通える距離であったが、寮生活を体験するのも今後の人間形成の上から有意義ではないかという親の意志と、未知なる世界への憧れから学寮へお世話になることになったのは、昭和28年4月のことである。真弓寮5号室?と、どのように発表されたかは忘れたが、2年生4人、1年生4人の学寮では唯一の8人部屋であった。時には部屋の模様替えをしたかも知れないが、和室の真ん中に机を四つずつ二列に向かい合わせて並べ、上座が二年生、下座が一年生という配列、夜になると自分の机の後ろに布団を敷き、この空間が自分の城である。前期、後期で部屋替えがあったと思うが、何事も最初の印象は強く、今でも同室の方の名前が言えるのは最初に出会った方々のみで、今は交流はないが、時にふれ、懐かしく思い出している。
寮生活のきまり……朝は寮長の鳴らす鐘の音に、眠い目をこすりながら起床。先ずは自分の布団を押入れに整理し、部屋と共通部分の掃除をする。食堂の当番は部屋ごとであったように思うが、炊いてあるご飯やみそ汁をよそったり、お弁当作りや後片付けをした。お風呂の当番もあったと思うが、思いちがいであろうか。夜の消灯時間は十時?。毎晩の点呼はなかったが、それ以後の勉強やお裁縫などをするには別に共通の部屋があり、ほかの部屋や学生の違う人とのコミュニケーションを図れる場でもあった。もちろん、部屋にはラジオもなく、若い娘の華やいだ青春の声のみであった。
お休みの楽しみ……土曜日から日曜日は帰省する時もあるが、同室の人や気の合った人たちと一緒に出かける楽しみの場は映画館であった。当時はボーリング、ディスコなどなく、唯一の娯楽は映画で、岡山よりも西へと足が向き、笠岡の映画館にはよく行った。親からの仕送りは、決して多い額ではなかったように記憶しているが、映画を見るくらいはあったであろう。当時も、アルバイトという言葉やアルバイト先もあったであろうが、働いて遊ぶお金を稼ぐという時間も才覚もなかった。「大いに学び、大いに遊ぶ」という言葉から程遠い学生生活であったが、疑問も持たず実技に忙しく暮らしていた。友達の故郷へ行かせてもらうのも楽しみの一つで、同室の池田さんのお宅へ松茸をひきに行った。三原から奥へ入った。初めての松茸ひきでは、そこに生えていてもわからなかったが、松茸入りのすきやきの味を今でも覚えている。若さと食糧事情も悪く、いつもお腹をすかせており、大学の下のお店で煮豆を買ってきておやつにしていたが、写真では満月のような顔である。今の飽食の時代が来るなんて考えていたことがあったであろうか。今では、なだらかな緑の山も新興住宅地と変わり、記憶にあった農村風景とは大違い。夢多い乙女の時代を過ごした六条院の地も、三十数年の歳月が経ったことをこの景観が物語っていた。